2025/07/01 08:33

俳優という仕事をしていると、よく「もっと自然に」「演じないで」と言われます。
けれど不思議なものです。演じることが仕事のはずなのに、「演じるな」と言われる。
最近、その意味が少しずつ分かってきた気がしています。
そして、北海道・幕別町での体験が、その気づきをぐっと深めてくれました。

演じるとは、役割を円滑に果たすこと

私たちは日々、誰かを“演じて”生きています。
親として、友人として、部下として、上司として。
それは円滑に社会を回すために必要なスキルであり、生きる知恵でもあると思います。
演じることは、決して悪ではない。むしろ、ある種の優しさでもあるのかもしれません。

ただ在る、という在り方

一方で、ただ“自分”としてそこに在ることで、結果的に自然と役割を果たしてしまうこともあります。
森の生き物たちは、誰かに役目を与えられたわけではない。ただ生きているだけで、生態系の中で役目を果たしている。
その在り方は、何かに「なろう」とするより、ずっと自然で、美しいと感じます。

幕別町での“演じない”時間

今、僕は北海道・幕別町で、開拓期の農民たちが使っていたという「拝み小屋」の再現プロジェクトに関わっています。
ヤチダモやヤナギを現地で集め、縄で組み、茅を拭いて、まるで強化版テントのような小屋を建てる。
この小屋で、当時の人々は1〜3年も暮らしていたというのだから、驚きです。

このワークショップは、ある映画作品の準備の一環で行われているのですが、
実は数年前にも白老町で小屋づくりを経験したり、オランダで現代茅葺きの技術を視察したことがあり、
その積み重ねが、今に自然と繋がったのを感じました。
特別なことをしている感覚はなく、ただ「好きだからやっていたら役に立っていた」ような時間。
そのとき撮られた自分の顔を見たら、本当にいい表情をしていて。
演じていない。構えていない。ただ生きて、喜んでいる顔。
そういう瞬間が、自分にとっての「演じない技術」そのものなんだと思います。

 ↑北海道・幕別町にて。小屋が完成し、ただ生きている喜びに、そっと浸っている瞬間。

 

サイハテ村で出会った子どもたちの姿

かつて大学生だった頃に、インターンとしてお世話になっていた熊本県の三角エコビレッジ(通称“サイハテ村”)で、
とても穏やかでいつも笑顔のプロジェクトマネジャー、坂井勇貴さんがこんな話をしてくれました。

「ここに来る子どもたちは、家庭や学校で“いい子”を演じている。でも、ここでは演じなくていいから、自然に笑顔になるんだよね」

演じなくていいということ。ありのままで愛されていいということ。
それが、どれだけ人の心を解放し、循環を生むのか。
その一言は、深く心に残っています。

なぜ“演じる”仕事を選んだのか?

矛盾するようですが、最近感じるのは——
俳優の本質的な仕事とは「演じること」ではなく「演じないこと」なのではないかということです。
リアリズム演技では「役を生きる」ことが大切だとされます。
セリフに反応し、相手に動かされる。そのとき、演技は“つくる”ものではなく“起こる”ものになる。
俳優は、演じるという行為を徹底的に稽古し、やがてそれを手放していく。
その先に、ただ生きているような姿——生命力に満ちた演技が現れるのだと思います。

人生もまた、演じないための稽古

人生だって、同じようなことなのかもしれません。
いろんな役割を演じながら、その“演じている”ことに気づく。
そして少しずつ、ただ在ることを許していく。
演じることと、演じないこと。その往復のなかで、僕たちは育っていくのだと思います。

三十歳になって思うこと

先日、三十歳になりました。
この十年は、きっと「意識的に、無意識になる。そして無意識に、意識的になる」ための十年になるような気がしています。
役者としても、人としても、
ただ生きる。けれど、誠実に、真剣に、生きる。
その姿が、結果として誰かの心に届く表現になれば、それ以上の喜びはありません。